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カメラと写真とクルマとワーゲンとワインと美味しいものが好き。

風景写真が好きだった父へ

  

父が亡くなった。

2023/5/6(土)夕刻

病院で息を引き取ったと、実家に住む弟から電話で告げられた。

81歳だった。

 

3年くらい前からであろうか、認知症と思われる症状がみられるようになっていて、日々悪くなっているようであった。父の口から出る会話が明らかにおかしいのだ。母と弟から聞かされていた。

僕は結婚してから家を離れていて、実家には、父と母、弟が一緒に居た。

その後、庭作業でだったか、腰を強く打ち付け、自分で動けなくなってしまった。(のちに腰椎圧迫骨折と診断)

しばらく家に居て弟と母で面倒を見ていたようだが、そのままで状況が良くなる訳でもないので、古くからの地元の先生に訪問診断してもらい、その後、近くの町立病院への入院が決定。

入院後、認知症の詳細検査等も行おうとしたようだが、どうやら本人が騒いでしまい、できなかったと聞かされた。

ほどなくして病院からは、これ以上は預かれないからと長期入院を拒まれ、施設を探し、少し離れた町にある施設に入所。その後、1年くらいが経ってか、ようやく当初から希望していた、家からも近くなる町内にある施設へ入ることができた。  
 

しかし、その町内への施設へ入所後すぐに、発熱による体調不良で入院。

すでに認知症の症状も進み、食べ物の咀嚼も出来なくなっていたようで、医師からは長くはないかもというような事を言われたと、後に弟から聞かされた。

これが、4月中旬過ぎだったか。

病院へのお見舞い等は相変わらずコロナ影響で叶わないのは分かっていたが、母の様子も心配だったので、すぐに妻とともに実家を訪れ、状況などの話しを聞きに来たりしていた。

そしてGWに入り、妻が母の様子も気にかかるからと、5/4には再び実家を訪れた。

そのすぐ後のことである。5/6夕方に、弟からの電話があったのは。

   

聞かされていた自宅での様子から、もうすでに母や弟の手に負える状況でないのは明らかだったので、入院し、そのあと施設への入所ができたと聞いた時は、ひとまず安堵した。

でもそれからわずか1年余りの出来事である。

母や弟は、そのあいだも都度、さまざまな苦悩があっただろう。

しかし、やはり僕にとってはあっという間の出来事で、5/6に弟からの電話があった時は、悲しみの気持ちよりも先に、え?もうか!と、絶句してしまった。

   

5/9(火)通夜祭、5/10(水)葬場祭を、生前の父からの希望でもあった「アグリホール」でおこなった。父が幼い頃を過ごした、地元町内にあるJAの斎場だ。

   

やっと対面できた父の姿は、あの恰幅がよくがっちりとした体格であった父の面影はなく、頬はこけ、手足もほっそりとして、小さく痩せてしまっていた。まるで老人みたいだと思った。

   

斎場のホールには、父が撮り貯めた風景写真をスライドで上映し、プリントしてあった写真もアルバムで持ち込み、会葬に訪れたみなさんに見てもらった。

長く勤めた会社を定年退職して以降、カメラと三脚を抱え、風景写真を撮ってきては、それを知人に見せるのを楽しみとしていた。撮影には、母もいつも一緒だったと聞いた。

もっとも父らしい、父のことを回顧できる、そして父自身が残してくれたものであったのだと、あらためて思った。

   

   

通夜の後、そのままアグリホールで泊まれるようになっているからと事前に知らされていたので、父と母弟、僕と妻の5人で、父との最後の夜を過ごした。

通夜で配った食事の残りを、ビール等も飲みながらみんなで食べた。

母と弟と久しぶりに対面してテーブルに付き、ああ、父が居なくなったんだなと、あらためて感じた瞬間でもあった。

妻から「お父さんにもね!」と諭され、ビールと、その後はワインも、父の枕元へ捧げた。

その様子を見ていた母が、「あらイイね、今日は!こんなにいっぱい貰って!」と、父に話しかけていた。生前、元気だった頃は、父は晩酌を欠かさなかった。

   

翌日の葬儀の日も、青空が広がる気持ちのよい晴天だった。

前日までの風もピタリとおさまった。

誰にも言わなかったが、風景写真好きであった父が、まるで最後の最後に呼び寄せた晴天のようだと思った。

   

亡骸はあっという間にわずかな骨になり、骨壷におさまった。

火葬場から斎場に戻り、葬場祭、十日祭と、ひと通りの儀を済ませた。

その日のうちに、自宅すぐそばの父が建立した墓へ、納骨までを済ませ、これでやっと父が帰ってきたようで、なんだかホッとした。

斎場から持って帰ってきた父の遺影を見て、まるで父が「あー、やっと帰ってこれたな」と言っているようだと妻に言ったら、そうだねと笑っていた。

   

まだ残されてた手続きやら何やら、やる事はいっぱいあるのであろう。

家に帰ってきてからも、弟が母と何やら話しをしていた。

ここまで父の事を、ずっと面倒をみてきている弟に、家からはすでに離れていた僕が今さら口(だけ)を出すようで気がとがめ、僕からは何も言わなかった。

   

とりあえず、母と弟とで、無事に父を見送る事ができてホッとした。

まだ少し落ち着かないだろうし、母の事も心配だし、これまで以上に気にかけておかないとだけど。

   

葬儀の最中、短気でせっかちな父が、遅々とした葬儀の進み具合に焦れて、「はあ、もういいよ!けえん(帰る)べぇや!」と言い出しそうで、不思議と冷や冷やした。

そんなせっかちな父らしく、短かったけども全速力で駆け抜けた81年だったのかな。ふとそんな風に思えたら、最後の1年余り、まったく顔を合わせる事も出来ずに寂しい思いをさせたのではないかと気にかかっていたが、父本人は思い残す事なくやりたかった事をやり切った81年だったのかなとも思え、ああ、やっぱり父らしいなと思った。

   

父と母、僕と弟と、4枚のピースのうちの1つが失われたその喪失感は、まだ少しのあいだ残るだろうか。

でも父が、これでやっと自分の居るべき場所へ帰ってこれてホッとしているのではないかとも思え、良かったと、ようやくの安堵の気持ちだ。

父よ、やっと家に帰ってこれたな。ゆっくり休んでくれ。